『だめね。失敗だわ』
待って。
『こんなんじゃぁ、とても使えないでしょう』
待って!
『仕方ないわ。次よ』
捨てないで…っ
『今度は胎児レベルから始めましょう』
捨てないで!!!!
声は、届かなかった。
あの人の所まで、辿り着かなかったのだ。
「待って!!!!」
自分の声に、目を覚ました。
心臓が、破裂しそうに痛い。
息が、荒い。
「・・・っ、はぁ、・・・はぁ・・・」
あの時の、記憶。
とっくに、忘れたと思っていた……あの記憶。
「どうして……っ」
慣れた暗闇に、自分の声が反響するのが分かる。
しかしいつもと違う反響。
住み慣れた屋敷ではないことを、改めて認識する。
「どうして……今頃……っ」
どうして。
自らに問うことすら、愚かだと分かる。
分かり切ったこと。
「どうして………っ」
しかし恨まずにはいられない。
憎まずにはいられない。
彼が………思い出させるのだ。
私の……過去を………。
コンコン…
少し控えめなノック音。
「…Σさん…?」
永禮は寝ていたベッドから身を起こし、ドアの外の気配を探る。
やはり、彼のようだ。
周囲の気配を探るのは癖になってしまったようで、それはこの旅をし始めてから、更に根強くならざるを得なかった。
寝ていても微かな気配で目を覚ますし、イヤな予感もはずれたことがない。
永禮はそれが自分の役目で、果たすべき責任だと思っている。
戦士としての、守る立場としての、責任だ。
木造の薄いドアを引くと、やはり、そこには儚げな青年が立っている。
普段のスーツ姿ではない、ラフな木綿のシャツ。
夜色の髪をただ夜風に遊ばせ、やはり瞳は伏せたまま。
永禮が知る中で、一番キレイで、美しいヒト。
盲目の彼は、見えていないはずなのに、それを感じさせない程自然な仕草で永禮に話しかける。
「こんな時間に、すみません…」
確かに、訪ねてくるには遅すぎると言えなくもない時間。
すでにαとθは夢の中だろう。
もう月も傾き始めている。
「何か、ありましたか?」
これまでは無かった行動に、少なからず違和感を覚える。
もしかしたら、何か困ったことでもあったのだろうか。
「いえ、そういうわけでは…ないのですが…」
言って、俯いてしまう。
いつも淀みなく語るΣの口調が、どことなく不安げに聞こえたのは自分の思い違いか。
そういえば、顔色が悪い。
もともと肌の白い人だったが、夜の闇のせいか、一段と白く見える。
やはり、と永禮が口を切ろうとすると、ふいにΣが再び上向いた。
それは、見慣れた、しかしいつもそれ一つで永禮を虜にさせてしまう笑顔。
やはり思い違いか。
「よろしければ、少し散歩でも、と思いまして」
どうですか?
笑顔で問われ、違和感を持ちながらも無意識のうちに永禮は「もちろん」と頷いてしまっていた。
Σと夜の散歩。
その喜びが永禮の思考回路のほとんどを埋めてしまったのは、仕方がないと、言えなくもない。
外に出るまで、二人の間に会話は無かった。
寝静まった宿屋に二人の声を響かせるのもどうか、という理由がおそらく正しいのだろうが、今の状況では、どこかΣの雰囲気の違いに理由がある気がしてならない。
やはり問いつめようか、でも、いやしかし、と珍しくも悩んでいた永禮の思考回路は、外に出るガラス張りのドアを潜った瞬間、一気に引き戻された。
「すっげぇ……っ」
それは見事な満月。
冬の澄んだ空に、星々が眩しい。
「月、すんげぇ綺麗っすよ!」
思いのまま声に出してみて、ふと気付く。
あ、と後悔の念が今更ながらに浮かんでくる。
Σには、見えないのだ。
どれだけ綺麗と言ったところで、分かるはずもない。
イヤな思いを、させただろうか…。
そんな永禮に気付いたのか、Σは微かに微笑む。
「気にしないでください。見えなくても、光は感じるんです」
今日は綺麗な満月ですね、と空を見上げた横顔に、思わず顔が火照る。
あぁ、動悸が…。
(あれだ、『あなたの方が、綺麗です』ってやつ)
でも、そんな恥ずかしいコト、言ったら引かれる。絶対引かれる。
誤魔化すように話題を探して、
「そ、そういえば、Σさんの目っていつから…」
言ってからまた、はた、と気付く。
(あ〜おれのばかばか! 何言ってんだよ〜!)
普通は訊かないだろう、そんなこと。
いっそ自分で自分の首を絞めてしまいたい。
切にそう思った。
「す、すみません!」
謝ることしかできなくて、泣きたい気持ちになる。
恐る恐るΣの顔を窺うと、彼は特に気にした様子もなく、ただ静かに微笑んでいた。
「ですから、気にしなくていいのですよ。…これは、生まれた時からです。幼い頃から、光も、闇も、風も、全て肌で感じてきました。生活に困ることはありません」
本当に気にする様子もなく語るΣに、ほっと安堵の息を吐く。
「訊いても、いいですか? ……その、Σさんについて、い、色々、と…」
もともと永禮はΣのことが好きなのだ。
このチャンスは逃せない、とばかりに意気込むが、ふと隣の気配が変わったような気がして、永禮は先程の違和感を思い出す。
Σが部屋を訪れた時から、ずっと拭えなかった違和感だ。
「Σさん…?」
「…今日は、そのつもりでお誘いしたんです」
どこかで感じた雰囲気。
これはそう、人が、何かを決意した時の雰囲気だ。
横を見ると、気配に似合わず、彼は静かな表情をしている。
いや、似合いすぎているのか…。
「あなたには、話しておくべきだと…思いました」
なにを、とは訊けなかった。
訊いてはいけない気がした。
「私の、過去」
言わせてはいけない気がした。
「私の、存在」
「昔話を、しましょうか」
初めて逢った時、光だと…これが光なのだと思った。
初めて知った、眩しい光。
イメージでしか知らなかった、強い光。
惹かれるのに、時間はかからなかった。
見ることの出来ないはずの私の瞳に、彼は焼き付いた。
彼は私の中で大きな存在となり、自然に抱いた『愛しい』と思う気持ちすら、愛しかった。
彼は真っ直ぐに私を照らし出し、私を光の元へと導いた。
私は、自分も光を得られるのだと、無邪気に喜びもした。
しかし、いつしか気付いてしまったのだ。
光の元へ行くにつれ、私の影は、暗さを目立たせていく。
光に焦がれて手を伸ばすほどに、闇が淀んで渦を巻く。
彼の傍にいると、私は自分の存在が許せなくなる。
私は、闇なのだ。
何処まで行っても、光と交わることのない、闇だ。
焦がれても、焦がれても、手に入れることは、出来ない。
覚悟があった。
彼には全てを話さなくてはいけない。
好きだと…私を好きだと言ってくれた彼だからこそ。
私が…愛した彼だからこそ。
今、言わなくてはいけない。
このまま黙っていることは許されない。
彼の為に、私の為に、これ以上近付いてはいけないのだ…。
彼が闇で汚れてしまう前に、離れなければならない。
離れられなくなる前に、離れなければならない。
大丈夫。
私は生きてゆける。
元々与えられた生なれど…。
狂わず、歪まず、生きてゆける。
私は、光を知ることができたのだから。
「とても、好きな人がいました」
Σは語り始める。
「本当に好きだった。…彼女は、いつも綺麗な声でよく笑って…。私はそれを聞いているだけで、幸せでした。…彼女だけが、私の存在の全てだったんです」
暗闇の中、彼女だけが確かだった。
毎日、彼女の声を聞き、自分の存在を確かめた。
自分はここにいるのだと、認識することができた。
他人から影響を受けることでしか、自分自身を確かめることができない。
暗闇とは、そういうところだった。
「彼女の役にたてるのならば、それで良かった。そう思うだけで、どんな苦しい実験も…耐えてこられた」
「実験…?」
「だけど私は捨てられた。失敗作だと。使えない、と」
隣の人間が、息を飲むのが分かる。
まさか…と小さく呟くのに、Σは頷いた。
「私はαとθの前に創られた実験体。…そして、失敗作です」
「失敗、作…」
唖然としている。
昨日、αとθの話を聞いたばかりなのだ。無理もない。
彼らの話だけでも、永禮にとっては未知の世界の話だったはずだ。
その上、自分の過去まで押しつける…。
いや、押しつけるのではない。
現実を、見せるのだ。
自分が愛したものは、架空の、人形だったと。
しかし、彼なら、と期待する自分もいる。
遙かな水面に、降る光に、手を伸ばす自分がいる。
まだ、光を、求めている。
だめだ。
それでは、だめだ。
他人の感情に敏感な彼は、自分を助けようとしてしまう。
早く…離れなければ…。
「私達の創造主が『協会』の人間であることは昨日、お話しましたね。…私は、彼女が最初に手掛けた実験体です」
αやθのような優秀な素体が最初から創られるわけではない。
そこに至るには、数々の失敗が必要だった。
「Σさんが…? でも…」
「年齢が合いませんね。彼女は私が生まれた時に24歳でした。そして、α達が生まれた時には29歳」
「…ぇ、? えと…」
困惑する声。
「私は元々、26歳の躯で創られたんです」
24歳の彼女は、もしかしたら恋人という存在を…Σに重ねたかったのかもしれない。見目美しい、彼女だけの人形。そのために、26歳の躯でΣを創り、視力を補う為に高い知覚能力と運動能力を植え付けた。
それは、彼女なりの優しさだったのかもしれない。
あの時は、確かに彼女の愛情を感じていたのだ。
しかし、失敗が続くにつれ、彼女は変わっていった。
笑わなくなった。
Σ、と呼ばなくなった。
研究に没頭するようになり、失敗すると癇癪をおこしΣの躯を痛めつけた。
彼女は女である前に、研究者だった。
自然と、Σで実験しても無意味であることを悟り、そして彼女は、Σを『廃棄物』と認めた。
「14年、成長も老いもしていません。…私は、人間ではない。ましてや、礎体にもなれなかった…」
何者にもなれない、半端な物体。
「Σさん…」
愛されるはずのない、物体。
人間ではない。
老いないこの躯。創られた、存在。
そして同じ創られた存在であるαやθのように、魔物を封印する事も出来ない、未完成の躯。
αとθを憎んだことすらあった。
同じ創作物でありながら、二人は成功作であり、多くの人間に求められた。
二人の存在を知ってから、ずっと憎んでいた。
そして、逃げだし、自由を手にしたと聞いた時…殺意さえ覚えた。自分が欲しても手に入れられなかったものを手にし、捨てたという。これ以上の仕打ちがあるだろうか。
世話係として会いはしたが…優しくできる自信など皆無だった。
そしてαとθに接触し…Σは絶望した。
二人は白かった。
純粋で、無垢で、闇などなく…。
自分が酷く汚い存在に思えた。躯だけでなく、心まで汚れていた。それを思い知った瞬間、一番許されない存在なのは自分なのだと、悟った。
そんな自分と彼が、一緒にいて良いはずがない。
いいはずが、ないのだ。
「…あなたには、きっと、もっと、相応しい方がいます」
これで、いいのだ。
自分は彼が言うような、『綺麗』な人間ではない。
躯も、心も。
自分を選ぶ必要はない。
「Σさん…っ」
「私に巻き込まれて死ぬなんて、そんな幸せはあり得ないのですよ」
「Σさん!!」
強い口調で遮られる。
怒っているような、困惑しているような、永禮の声。
そう、この声も好きだった。
「む、難しいことばっか言わないでください! 俺は、Σさんが…Σさんが、好きなだけで…創られた存在とか、俺には良く分かんないけど…俺はΣさんが好きなだけです!」
真っ直ぐに、自分を照らす光。
眩しすぎるのだ。
彼に、この胸に巣くう闇は、理解できまい。
「私の言いたいことは、これが全てです。騙しているつもりはありませんでしたが…すみません」
優しい感触に、溺れていたかった。
出来るだけきっぱりと言い放つと、Σは永禮に背を向ける。
彼がどんな顔をしているのかは分からない。しかし、これからどうするのが正しいか、彼にも分かるはずだ。
責任感の強い彼のこと、この旅が終わるまで別れはないだろうが…。
…作り物の、心が痛い。
彼の背中を見れるだろうか。
穏やかな気持ちで、「ありがとう」「さようなら」と言えるだろうか。
ともかく今は、ここを去ろう。
これ以上、辛くなる前に…。
「お休みなさい…永禮さん…」
これで、終わり。
声はそれ以上追ってこなかった。
…好都合なはず。…なのに、心は痛い。
…この痛みも、いつか思い出になる日がくるのだろうか…。
永禮を残し、Σはその場を後にした。